共和国の歴史

宇宙空間観測所周辺

「陸の孤島・内之浦」が「世界の内之浦」になった日〜一話 「ここだ!」天啓のひらめき〜

2016.06.01 up

内之浦宇宙空間観測所全景

「ここだ!」天啓のひらめき

内之浦までの発射場ヒストリー

昭和30年(1955年)東京国分寺で、当時東京大学生産技術研究所教授であった糸川英夫氏が、ペンシルロケットの発射実験を行った。これが日本ではじめてのロケット発射実験である。続いて千葉でも発射実験を行い、舞台は主に秋田県の道川海岸に移る。

全長約1mのベビーロケットから地球観測用ロケットであるカッパロケットへ。ロケットの飛行性能が著しく向上したことにより、糸川氏は日本海側での打ち上げに限界を覚えた。そして新たな発射場を求めて、太平洋側を行脚することになった。

太平洋の遥か彼方をみつめる糸川氏の銅像

渡曾(わたらい)実さん(肝付町役場産業創出課課長)
観測所の名物ガイドと呼ばれる父を持ち、幼い頃から宇宙を身近に感じて育った。肝付町役場に勤務する傍ら、内之浦の歴史研究と資料収集・保存に尽力されている。
糸川 英夫氏(1912-1999)
「日本の宇宙開発の父」と呼ばれる東京大学宇宙航空研究所教授。宇宙空間観測所として内之浦を選定、建設し実験を続けた。昭和42年(1967年)に東京大学を退官し、宇宙開発の世界から引退。後進に夢を託した。

小用を足しながらひらめいた内之浦の発射場

糸川氏が初めて内之浦を訪問したのは昭和35年(1960年)10月。全国を行脚しながら、次なるロケット発射場の舞台を探し求めてやってきたのだ。

発射場を作るためには、「工場がないこと」「人が少ないこと」「晴天率の高さ」「航空路の調整」「漁業関係」などに加え、「平地であること」が重要だ。 どう考えても内之浦にはそれほどの広さの平地はないと、案内を任された当時の久木町長は困ってしまったという。それでも糸川氏の強い意向により、なんとか絞り出した場所を案内した。しかし適地はなかなかみつからず、仕方なく帰路につくことに。その帰り際、糸川氏は峠の途中で車を止めた。そして県道沿いの長坪台地の茂みをかきわけ、広大な太平洋を前に小用を足しながら、「ここだ!」と叫んだという。

『内之浦宇宙空間観測所』の誕生は、糸川氏の思いがけないひらめきからはじまった。

昭和40年 1965年の内之浦の全景

当日のことを語る渡曾さんが、おもしろいエピソードを教えてくれた。

「内之浦に東大のえらい先生がくる」ということで、久木元町長や婦人会長が出迎えをしようと待機していたが、いっこうにやってこない。その時、一台のタクシーが目の前を通り過ぎたかと思うと、また引き返してきた。なんとそのタクシーを運転していたのが糸川教授だったのだ。

今でこそアクセスしやすくなったものの、当時、内之浦は「陸の孤島」と呼ばれるほど、交通手段の限られた地域だった。糸川氏は、隣接する鹿屋市(※)でタクシーを呼び、「内之浦まで」と告げたところ、運転手から「あそこは道が悪い」「道を知らない」とごねられたそうだ。そこで「それでは私が運転するからあなたは助手席に乗りなさい」と糸川氏自らハンドルを握った。同行者も運転手も、呆気にとられたという。そんな一悶着の末、糸川氏がタクシーを運転して内之浦までやってきたのだ。目的達成のためならどんな苦労もいとわない、一直線に突き進むという、糸川教授らしい信念がうかがえるエピソードだ。

(※)鹿屋……内之浦から直線距離で約30km弱にある大隅半島で最も人口の多い都市。当時、鹿屋市から内之浦町までは悪路で、もっと距離もあった。

建設現場を訪れた糸川氏。土木作業にまで協力してくれる婦人会の方々をみてとても感動されたという