共和国の歴史

宇宙空間観測所

ロケット職人が見た糸川英夫〜後編:糸川氏が愛した内之浦〜

2016.06.01 up

糸川氏が愛した内之浦

糸川氏の銅像。内之浦の海を一望できるこの場所で、糸川氏が見守ってくれている。

町に迷惑をかけないこと

「内之浦の男性は黙っていて男らしく、女性は人懐こい。みんな集まってお酒を飲むことになっても、嫌々やるのではなく『ようこそ来てくださいました』と心からもてなしてくれる」。
林さんは、昭和37年(1962年)8月に初めて内之浦を訪れた。その日は土曜日で、町長との晩さん会が行われた。船をつなぎ、実験班を乗せてみんなで酒盛り。それを見たとき「すごい町だな。秋田の道川実験場ではこんなのなかった」と思ったそうだ。

スタッフと町民の交流の場となっているスナック『ニューロケット』。実は糸川氏が名付け親だという。

地元最優先。糸川氏の気遣いが深い交流を生んだ。

相手の心を掴む言葉を意識的に使い分けていたという糸川氏。内之浦でのロケット開発はその長けた交渉術と根回しから始まったともいえるそうだ。
糸川氏は、射場を内之浦に移すことが決まったときに、スタッフにこんなこと言い聞かせていた。
「内之浦には美人が多い。目を合わせるとニコっと笑ってくれる。でも好きだからではなく、明るい性格だからそうしてくれるだけなので、勘違いしないように。迷惑をかけないように」。 そのため、「地元の女性には声をかけない」「夜10時を門限とする」などの決まりを作って出張したという。
また、地元協力の必要性を強く感じていた糸川氏は、実験班と役場職員によるスポーツ大会を開催するなど、地域の活性化にも率先して取り組み、実験班スタッフ達にも運動会や夏祭りに参加するようはたらきかけた。
地元とトラブルを起こさないようにという、糸川氏のそうした気遣いも、住人には十分伝わっていたのだろう。そうして、内之浦でロケットを通じた交流が育まれていく。

町の夏祭りに参加した実験班スタッフたち

銀河マラソンでは、町民と共に汗を流した

糸川氏の数々の計らいによって、観測所と地域との距離はぐんぐん縮まり、半世紀にわたる良好な関係が培われていった。「世界でも、内之浦ほど住民との交流が深い発射基地はない」と言われるのは、糸川氏がいてこそなのだろう。

「三つ叱って五つ褒め、七つ教えて子は育つ」という言葉がある。糸川氏は、常々これを実践していたという。スタッフには「失敗しても、何か言われたら糸川の責任と言ってください」と話していたという。『おおすみ』打ち上げ直前の退官も、家族であるスタッフのためを想ってのものだった。

糸川氏が亡くなった際、元内之浦婦人会一同で作った横断幕

肝付町役場内之浦出張所にあるレリーフ。開設30周年を記念し、観測所から贈られたものだ

糸川氏の銅像の前で、糸川氏との想い出話を語る。

林さんの元には、全国からこれまでのロケット打ち上げや糸川氏に関連する、膨大な資料が集まってきている。それを中部さんとともに保存、管理している。何かの機会にこの資料を一般に公開できればと考えているそうだ。
「この資料を通して、新しい価値が生まれ、内之浦の町づくりの一端となればと思っています」。

取材メモ

ロケットを開発するような理数系の方は、人としては少し気難しい人という印象を持っていましたが、糸川氏はとても温かみのある人でした。糸川氏は生前、「103歳まで生きたい」と話していたとのこと。「103歳だと、何年になりますか?」「2015年。あ、ペンシルロケット60周年だ。そうだったのか……」この取材中に判明したことです。日本のロケット研究のスタートは、糸川氏のペンシルロケットから。この60周年にどれほどの想いを傾けておられたのかと思うと、胸が熱くなりました。

取材・文/松田享子 写真/日高裕之、牧工(写真家/元南日本新聞通信員)

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