共和国の歴史

宇宙空間観測所

ロケット開発の栄光と苦悩〜前編:失敗から成功へ〜

2016.06.01 up

内之浦から打ち上げられた、日本初の国産人工衛星『おおすみ』

失敗から成功へ

内之浦に観測所ができあがってからも、すべてが順調に進んだわけではなかった。いったいどのような困難を乗り越え、半世紀にもわたるロケット実験が行われてきたのか。元JAXA職員の中部さんにうかがった。

中部 博雄 さん
昭和40年(1965年)に東京大学宇宙航空研究所(糸川研究室)入所、平成19年(2007年)JAXA 宇宙科学研究所退職。ロケット、衛星(探査機)のタイマー点火系および点火管制、固体ロケット燃焼試験の計測班を担当した。定年後、少しでもロケットの近くにいたいと、2012年4月、鹿児島県鹿屋市に移住。

今回お話をうかがった場所は、中部さんが勝手知った観測所の宇宙科学資料館。柔らかな笑みで話される中部さんだが、実は宇宙研時代「瞬間湯沸かし器」と言われていたとか。

あとがなかった『おおすみ』打ち上げ

初の人工衛星『おおすみ』の打ち上げ成功により、日本は世界で4番目の人工衛星打ち上げ国となった。

人工衛星おおすみ

人工衛星『おおすみ』

昭和45年2月11日に内之浦宇宙空間観測所からL(ラムダ)-4Sロケット5号機によって打ち上げられた、日本で最初の人工衛星。

日本初の人工衛星打ち上げまでの道のりは、平坦なものではなかった。
昭和41年(1966年)9月から始まった『L(ラムダ)-4Sロケット』1号機の打ち上げは、2段目のロケットを切り離したあと、角度がずれて失敗。同年12月の2号機は、第4段のロケットが点火せずに失敗。翌年4月の3号機の打ち上げは、3段目に着火せずにまたもや失敗した。

打ち上げ失敗が続く最中の昭和42年(1967年)3月、この計画の中心人物であった糸川英夫氏が東京大学を退官する。「打ち上げ失敗に対してマスコミからのものすごいバッシングがあったんです。『金の無駄遣いだ!』と。糸川氏は宇宙研と我々を守るために辞めたんですよ。『おおすみ』の打ち上げ直前だったけど『もう基礎はできているから大丈夫だ』と言って」と中部さん。
L-4Sの実験は「失敗したとしても6号機で終わり」と予定していたが、「5号機までには必ず成功させる!」と、担当された先生方は辞職を覚悟で臨んでいたが、それは職員も同じ気持ちだった。
昭和44年(1969年)9月22日に4号機を打ち上げたが、これも分離した3段目が4段目にぶつかって失敗した。

度重なる打ち上げの失敗に心を痛めていたのは、町の人々も同じだった。「なんとか実験班を励ましたい」と内之浦の婦人会がコントロールセンターを訪れ、居合わせたスタッフに千羽鶴を手渡した。折り鶴は4段式のラムダロケットに似せて作られていて、1.5メートルの長さの折り鶴が4つの束に分けられていたという。中には「祈る成功L-4S」と書かれていた。
「彼女たちの想いに、実験班はどれだけ元気づけられたことか」と中部さんは振り返る。

婦人会がはじめて贈った千羽鶴。以後、衛星打ち上げの度の恒例となる

婦人会の有志たちで、人工衛星打ち上げ成功を祈願

実はこの同時期に、中国も人工衛星を打ち上げるという話があった。度重なる失敗と、どちらが先になるかというプレッシャーの末、町の人たちの祈りが通じたのか、昭和50年(1970年)2月11日に初の人工衛星『おおすみ』が誕生する。

町の人たちの深い愛情に感謝して、日本初の人工衛星は『おおすみ』と名付けられた

「もしこの実験が失敗していたなら、宇宙研(※)はどうなっていたか判らない」と中部さん。5号機『おおすみ』打ち上げが成功したことにより、その後の日本のロケット開発も首が繋がったのだ。
関係者が背水の陣で臨んでいたのはもちろんのこと、町民たちも「今度こそは」と期待していただけに、4回の失敗はとても辛いものだったという。だからなおのこと、実験班の成功を家族同様に喜び、また「内之浦の、自分たちのロケット」として、盛大に祝った。

※…文部科学省宇宙科学研究所(ISAS)。2003年10月、ISASと航空宇宙技術研究所、宇宙開発事業団の3機関が統合し、JAXAとなった。

町中が「おおすみ」の打ち上げ成功に沸いた